ヲタとファンの違いとは

こことかここ(原点?)とか、なんだかこっちとしても考えることが多くなった話題なので。


僕個人としての意見は基本的にはとほさんところに書いたことなんだけど、
そこからさらに考えてみて、その上でセルフさんのところを読んでなんとなく感じたこと。
ファン→ヲタっていうのは境界線があるとは思わなかったけど、逆の流れには存在している。
あとファン→ヲタっていう目線には距離感が明確に感じられたけど、逆では曖昧にしか分からない。
これってどちらかを定義するより相関関係を定義していかないと分からないってことじゃないのかな。


なんとなくだけど、『ヲタ』には他との関係性において"比較"って考え方が強い気がする。
自己と対象(僕らの場合はハロプロとか)に加えて対象を見つめる他の視線を確実に意識しているというか、
例えば「〜より頑張る」とか「〜より前で見たい」とか、自己と他己との関係性によって
名称を定義付けられると言うか、そういう過程が必ず存在しているように思う。
そもそも、現場系で言えば"前で常に見たい"っていうのは、距離感を近くするとともに
他の、同じ方向を見つめる視線を意識する余地が少なくなることも示していると思うし、
在宅系で言えば、他の人に負けないくらい、これはより前線で会話についていきたいという
レベルも含むと思われるが、推しメンに関しての情報を得たいと考えるのもあると思うし、
いずれにせよその意味では、ある種の競争意識にまで達することで人は『ヲタ化』するのではないだろうか。


『ファン』って、もちろんこれは『ヲタ』を含む定義だけど、自己と対象との関係性のみによって
根本的には位置づけられているように思う。
要は必ずしも自分と対象以外の人間が介在するものではないっていうこと。
だからこそ考え方も幅広いし、より自由度の高いスタンスがあるのではないか、と思う。
逆に言えば『ファン』はより定義付けがしやすい存在なのだろう。


やっぱり、『ヲタ』って、他人から定義付けられるもので、自分でするものではないかもしれない。
そこら辺が「俺『ヲタ』だから」と言える様になった現代のオタク文化って、何か歪んでる気がする。
だからこそ『ヲタ卒業』なんていう、結局は自分の中での区切りでしかない儀式を、
ヲタはしたがるのではないだろうか。
勿論、それは必要な儀式だと思うし、明確に自己を意識する意味で必要だと思うけども。



ここからは対象を絞ったお話。
今回のセルフさんの『ヲタ卒業』って、僕個人としては納得させられる部分も多いし、
なんとなくだけど、自分がその立場に近づきつつあるのではないかと思っていて、
少しづつ自分の中でもエンドロールが見えてくる恐怖もなんとなく感じつつあるのだけど、
やっぱり他人(ひと)は知人の終幕に対して何らかの抵抗感を抱くものだと思うし、
セルフさん自身もそういう他人を意識している気がして、そういう律儀なところとか
やっぱセルフさんらしいなぁと思ったし、実際に僕らのそばから急にいなくなるって
ことではないんだと思うから、僕自身はその判断を、矢口さんの時同様に、いや動揺か・・・
そんなこんなでも見守っていきたいと思いますよ、うん。


なんか俺の場合、間違いなく彼女を取るっていう自信がないけど、たぶんそうなりそうな気がするし、
実際問題そうする方がより自然な気はしてる。度合いは違えど。
だからそういう中で自分の中にギャップが生じるのはある種当然だと思うし、
そのギャップが人を苦しませるのであればその種を取り去った方がより健康的じゃないかと。
僕はそういう判断を−明確に−下したセルフさんってスゴいなぁ、と思ってます。
僕だったら、たぶんもっとなあなあでフェードアウトしそうな気もするし・・・(グフ


でも、今一番欲しいものはリサコチャンだけどね!
(↑ものすごい迷いの見える文章)



あー、Iさんは今頃大学の合宿だって言ってたなぁ・・・(ボソ
千奈美にホトメの新しいアド取っちゃったw 必死だなww